27,
2009

今日は雪だし、おいら寝るわって、まあ、毎日寝てますけど…
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Author:田島照久 thesedays
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27,
2009
![]() 今日は雪だし、おいら寝るわって、まあ、毎日寝てますけど…
25,
2009
「ボクは宇宙飛行士」 田島照久
(horror level ☆) ボクは宇宙飛行士。 人類初の月に降りったったあの宇宙飛行士だ。 正確には、あの時は、あの宇宙飛行士だった。 ぼくと一緒に働いたのは複数居たけどね、 間違わないでほしいけど、 あのNASAの宇宙飛行士じゃないよ。 ボクは雇われたからやったまでだ。 もう50年も昔のことだけどね。 近頃になって、やっと君たちは そのことに気付いて、騒ぎだしたから ほんとのこと話した方がいいかなと思ってるんだ。 いいかい、あのころの宇宙開発の技術では 人類が月に行くなんて無理だったんだ。 考えてもみてごらん、君がその宇宙飛行士だとして、 一度もテストもしないで、 いきなり月に降りるんだよ。 針の先ほどの宇宙服の穴でも即死するところだよ。 数秒でも浴びたら死んでしまう放射線が降り注ぐところだよ。 昼間の温度が80度で、日陰の、夜じゃないよ、 日陰の温度がマイナス120度になるところだよ。 そんなところに送り込まれるんだよ。 行けって言われて、行くかい? ヒーローになれるからって、行ってみるかい? じゃあ、おまえは誰だって? 良い質問だね。 ボクはね、実は、地球人じゃないんだ。 説明が難しいから、今は 地球人じゃないことだけは教えておくよ。 だれから頼まれたって? それも、言えないけど、想像はつくでしょ。 エリアなんとかに捕われてしまった 僕たちの仲間を返してもらうことを交換条件で この仕事を引き受けたんだ。 実は、あの計画の行程の半分は本物なんだ。 つまり、本当の人間の宇宙飛行士たちは、ちゃんと サターンロケットで打ち上げられて月へ向かったんだよ。 そこまでは、当時の宇宙開発の技術で出来たんだ。 その手はずはこうなんだ。 計画の前半部分は当時の地球の技術で賄えたので 地球の人間がやったんだ。そして 後半を我々がやるということにしたんだ。 良いアイデアでしょ。 だからね、月で写っている宇宙飛行士は、 みんな、実は僕たちなんだ。 もちろん、交換条件のひとつ、 月の鮮明な写真も撮ってあげたから、 数々の写真は、みんな本物だよ。 みんな写真が偽物くさいって言ってるけど、 あれは、ハッセルブラッドという スエーデン製のカメラで撮ったものだよ。 とにかく、写真は本物。 僕に渡されたのは、特別に開発されたもので、 月じゃフィルムの交換なんて難しいから、 っていうんで、当時、映画で使われてた 70mmのロールフィルムをひとつの マガジンに入れてあって、200カットを 一度に撮れるようにしてあったんだ。 もう、全部撮りきったね。楽しかったよ。 バシャバシャとパノラマで撮ったりしてね。 何度も言うけど、写真だけは本物なんだ。 デジタルで画像処理が出来ない時代に あんな鮮明な写真をねつ造するのは無理だね、 とんでもない労力が必要だよ。 東京ドームの10倍くらいの巨大なスタジオをつくって、 そこに月の土壌を再現して、 太陽と同じ平行光線をライティングでつくって、 その広大な面積全部に、 平均的に光を当てる必要があるから、 そんな光源なんて、どうやってもつくれないよ。 それから、ねつ造計画に携わった数千人規模の 口封じをしなくてはいけない労力も大変だよ。 とにかく、月で写っている宇宙飛行士は、 全部、僕たちなんだ、証明は出来ないけどね。 でも、気付いたかな、ヘルメットの バイザーを上げて撮られた、僕たちの写真が 一枚もないことに…。 ©2009 Teruhisa Tajima all rights reserved.
20,
2009
![]() ちょっと時間が開いて2ヶ月ぶりの更新になりました。このギャラリーが出来ると、その確認を浜田さんを始めスタッフの皆にしてもらいますが、出て来る言葉は、いや、まったく懐かしいなあ、という言葉だけ。そして、田島さんは、良く色んなこと憶えてますね、と言われますが、何故か写真を撮っている時間とその空間だけはハッキリと憶えています。前後はあやふやですけど。 T.Tajima Shogo Hamada Harbor Sight
18,
2009
「予期せぬ怒り」 田島照久
(horror level ☆) 昭和の三十年代の話だ。 ぼくは、大分の山間にある 火ノ出中学校の三年生で、植村彰雄という。 取り柄と言えば絵が上手いことなのだが、その他に 亡くなる人が分かってしまうという、 あまり有り難くない能力も持っている。 ぼくの中学校では、恒例の、 秋の体育祭が近づきつつあった。 その日、ぼくは、担任の京塚先生に 届けるものがあって、職員室に入って行った。 すると職員室の奥には、西陽を背景にして立つ、 シルエット状の三つの影が見えた。 先生とふたりの男子生徒のようだった。 何事か深刻な話をしている様子がうかがえる。 職員室を見渡すと、その他には先生方が 三、四人残っているだけで、静かなものだった。 その中に京塚先生の姿は無く、 既に帰宅されているようだったので、 ぼくは先生の机を探し出して その上に届け物を置いた、と同時に パシーン、という音が職員室に響き渡った。 ちょっと、いやな音だったので、何事かと思っていると、 またも、バッシーン、と、もっと強い音が響いた。 音がする方の三つのシルエットに目を凝らすと、 先生の方は、体育教師の岡崎先生だということが分かった。 ぼくは、生徒の方を確認したいと思い、 少し近づいてみると、それは、 普段から素行が悪いと評判の菅沼と丹野だった。 何をしでかしたのかは知らないが、そのふたりが、 定年を来年に控えた岡崎先生から、 強烈なビンタを浴びせられていた。 ぼくは、それを見ていて、その岡崎先生の 最期が近いことが分かってしまった。 ぼくにしか分からない、最期のヴィジョンが観えたのだ。 だが、このことを説明するのは難しい。 今ここに存在している者が、 遠くに行ってしまうようなイメージが湧くだけなのだ。 こういう時は、誰にも言えずに、 本当に辛い気分になってしまう。 しかし、普段は温厚で女生徒にも人気の岡崎先生が、 こんなに激高している姿を見るのは初めてのことだった。 岡崎先生は体育が専門だが、 先生のお父さんが画家だったこともあり、 何かと僕の絵の才能を買ってくれていた。 ついこの前も、岡崎先生が指揮を執ることでは最後になる、 秋の体育祭のポスターを描いて欲しいと頼まれ、 ぼくは、巨大なポスターを三枚も描いたのだった。 西野辺地区と、東野辺地区と、商店街用に分けて描いて、 大喜びしてもらっていた。 しかし、今の執拗なビンタを見る限りでは、 岡崎先生は、明らかにやり過ぎている気もする。 何も、そこまでやらなくてもと、 普段は大嫌いなふたりに同情するほどだった。 際限なく続くビンタを見かねた他の先生方が止めに入って、 やっと、それは終わったが、誰かが止めなければ、 ふたりが大怪我をしそうな勢いだった。 ぼくは、見ていて、哀しくて仕方がなかった。 どうして、もうすぐ亡くなってしまう岡崎先生が、 人生最後の日になって、見ていられないような、 不本意な行為に走ってしまわなければ成らなかったのか。 よく考えると、そんなことを岡崎先生にやらせてしまった 菅沼と丹野が憎々しくなった。 顔が膨らんだふたりが、僕の横を抜けて行く時に、 …チクショー、岡崎のジジイめ、死ねばいい、 今に見てろ… と囁く声が聞こえた。 ぼくは思わず彼等の後に従い、職員室を出ると、 「おい、菅沼、丹野、待てよ、 岡崎先生はもうすぐ死ぬんだぞ、 自分にはそれが分かるんだ、 思い通りになるな、良かったな、嬉しいだろ、 さんざん喜んでろ」 つい、そう言い放ってしまった。 振り返った菅沼が近づいて来て、僕の胸ぐらを掴み、 「いい加減なこと言うな、植村。あのクソ元気な 岡崎のジジイが死ぬわけなかろうが」と迫るのを、 丹野が間に割って入り、菅沼と僕をむりやり離した。 殴られたら殴り返す覚悟でいたが、間近で見る 菅沼と丹野の顔は膨れ上がっていて、 紫色のアザが痛々しく、 そんな気力は喪失しているのが分かった。 次の日なって、学校に行くと、 前の日まで元気だった岡崎先生が、 突然亡くなったことで学校中が騒がしくなっていた。 女生徒の多くが泣いていた。 いつもは、死因はどうであれ、 ひとの寿命だけは仕方がないのだと、 言い訊かせていたが、今回は少し違った。 死因は心筋梗塞なのだが、噂によると、 昨日の興奮した岡崎先生の行動が、 もともと良くなかった心臓に負担をかけ、 そのことが原因ではないかということらしい。 緊急の職員会議が開かれ、 今年の体育祭開催の有無も検討されているようだった。 教室に向かうと、廊下の向こうで、 丹野が恐ろしいものでも観るように、 こちらを見ていた。顔に絆創膏を二、三枚貼っているようだ。 背後から肩を叩く者がいて、振り向くと、それは菅沼だった。 菅沼は何も言わずに、じっと僕を見つめている。 菅沼の顔も腫れが酷くて痛々しい。 おおよそ、訊きたいことは分かるが、 応えることも無いので、黙っていたら。 「言うてみいや、偶然やったんやろ、 人が死ぬのが分かるわけが無かろうもん」 と言って迫ったが、得体の知れない者を前にし、 怯えている様子が分かった。 あの乱暴者で巨漢の菅沼が小さく見えた。 本当は小心者なのかもしれない。 ぼくは、今度はお前が死ぬんだぞ、 とウソの予言を告げたい気分だったが、我慢した。 そこに、始業のベルが鳴り響き、 ぼくは菅沼を無視して教室に入った。 担任の京塚先生が入って来て、 岡崎先生の残念な逝去を告げると、 みんなで黙祷した。 顔を上げると、京塚先生は 何やらグシャグシャになった紙を取り出して、 今日は、もうひとつ残念なことがある、 これを見てみろ、と言って掲げたものがあった。 教室中が騒然となった。 それは、一週間前に、僕が描いた ポスターのうちの一枚だった。 それが、真ん中から無惨にも 四方に向かって引き裂かれていた。 最大の紙を二枚貼り合わせて描いた、 三枚の中ではいちばんの力作で、 あまりの大きさに、クラスの有志が何人か 手伝ってくれて完成したものだった。 岡崎先生と相談の結果、 西野辺がいちばん住民が多いからということで、 そこに貼ってもらおう、ということになった一枚だった。 それが、西野辺の溝に捨てられていたのを、 おととい、偶然、岡崎先生のクラスの 生徒が見つけたらしかった。 西野辺に貼ることを任されていたのは、 あの辺りに住む、菅沼と丹野のふたりだった。 ぼくは拳を握りしめると、廊下へ出て、 ふたりがいる教室へと向かった。 うしろから、京塚先生の 「植村、待て、気持ちは分かるが、今は行くな」 という声が聞こえたが、 もはや、ぼくは聞く耳を持たなかった。 ぼくは、いまや、岡崎先生以上に 激高していた。 ©2009 Teruhisa Tajima all rights reserved.
17,
2009
![]() 夕焼け空の写真を撮ったものの中で、いちばん好きな写真がこれです。オーストラリアで撮ったものです。実は、太陽が写っている夕方の写真はあんまり好きではなく、太陽が沈んだあとの残照が好きです。夕焼けが出来る条件はいろいろですが、めったに、美しいというか、絵のようなというか、説明がしづらいのですが、ぼくが思っている見事な夕焼けというものは、そう簡単には現れてはくれません。そこがまた良いのかもしれません。 T.Tajima
12,
2009
![]() ゴンベは、アーティスティックに撮ってなんぼの猫なので、思いっきり寄ってみましたが、失敗! もう一回レンズを変えて撮ってみます。スマン、ゴンベ! T.Tajima
10,
2009
![]() 今年に入って、少し暇になっていたので、日頃からやれていないことを始めてました。自分の作品をつくったり、小説を書いてみたりしてます。小説は短編が3本できたのですが、長編も書いてみたかったので、始めてみたら、これが面白くて、止まらなくなってます。そうこうしているうちに、だんだんと本業のデザインや写真の仕事が忙しくなりつつあって、でも、今はいちばんに、この長編を仕上げないと落ちつかないので、その時間だけはなんとか捻出してます。出版の目処も立た無いのに勝手に書いてます。とはいえ、結構、真面目に取り組んでます。書くからには、だれも書かなかったテーマで、どんなひとが読んでも面白いものをと思い、取り組んでいるのですが、どうなることやらです。 --------------------------- みなさん、また、最近もいろいろな、ご意見などいただき、有り難うございます。この場を借りてお礼を!そのうち何かでお返しを、と、でも、今は、なにも思い浮かびませんが… まだまだ風邪が流行っています。お気をつけて… T.Tajima そうだ!人気のゴンベの写真でも近いうちに…。 |
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